1分でわかる!日本のお墓の歴史

そもそもお墓とは何か?

お墓は、正式名称を墳墓と言い、遺骨を埋蔵する場所を指しています。

命ある私たち全ての者にやがて死が訪れ、永遠の眠りにつくのがお墓です。
ただ、それだけではなく、亡き人を偲び、家族、親族、知人、友人たちが詣で、時には集う場所でもあります。
故人への追憶とともに、生きている私たちが心の安らぎをえる場所でもあります。

日本のような家墓は珍しい

日本では1つの墓石の下に先祖から代々遺骨が納められていくことが一般的と考えられています。

しかし、世界を見渡してみると、お墓は個人単位で設けることが多く、何人もの血縁者が同じ墓に入る日本のシステムは、むしろ珍しいようです。
東アジアでは、家を単位にするのではなく、一族を単位にしてお墓が造られています。
先祖が眠る場所、それがこれまで考えられてきたお墓です。

日本のお墓の歴史

古代のお墓

日本では、古くから埋葬(土葬)が一般的に行われてきました。
例えば、縄文時代の貝塚を調べると、食べ物と一緒に人骨が出土することがあります。
弥生時代には、人が入るくらいの大きさの陶器の瓶の中に入れて埋葬されています。
それが大規模になり、古墳が作られるようになりました。

古墳とは、天皇や地方を支配していた有力な豪族たちのお墓です。
上に土などを積み重ねた丘のような形をしているのが特徴です。

4~5世紀頃を古墳時代といい、古墳が盛んに作られました。
6世紀頃には、大きい古墳を作らないように薄葬令と言われるお触れが出されたこともあります。

遺体を古墳に入れる前に、殯宮(もがりのみや)という遺体を置く建物が作られて、そこで追悼の言葉を述べる「殯」という儀式が行われたと言われます。
形式は、はっきりとわかっていませんが、1年ほどかけて遺体が白骨化するのを待って古墳に納めました。
それが今の告別式に通じるような追悼の儀式だと考えられています。

日本で一番大きなお墓

お墓は、天皇や豪族では古代から造られ、古墳として現存しています。

巨大な古墳は古代の天皇や豪族のお墓として建てられました。
日本各地に残る巨大な古墳は、古代の天皇や地方を治めていた豪族たちのお墓です。
その中でも、大阪府堺市にある大山古墳(仁徳天皇陵)は最も大きい古墳の1つです。

第16代仁徳天皇のお墓と言われる大山古墳は、エジプトのピラミッドに負けないくらい大きな古墳で、全長が約840メートルもあります。

主な古墳の形

①円墳

円墳は、丸い形をした一般的な古墳の姿です。
基本的な古墳の形の1つで、遺体を納めた棺の上に、土や石などを積み重ねて丸い丘のような形にしています。

②方墳

方墳は、上面が平らで台形のような形をしています。
円墳と同様に、数多く作られています。
上面が平らで、方形をしているのが特徴です。
用明天皇など、天皇の古墳にも見られます。

③前方後円墳

円墳と方墳が合体した巨大な古墳です。

円墳の部分に玄室と呼ばれる部屋があり、遺体が納められたと考えられています。
その前の方墳の部分に殯宮を建て、追悼の儀式が行われたのではないかと考えられています。

中世~江戸時代のお墓

墓地に建てる石塔の原点は、石の卒塔婆です。
卒塔婆はもともとストゥーパと言い、仏教を開いた釈迦が入滅した後、釈迦の遺骨を納めた搭を指します。
木の墓標や供養のために霊場に立てる卒塔婆から、平安時代後期頃になると、一種の供養塔として五輪塔が立てられるようになりました。
そして、13世紀頃からお経を中に納めた宝筐院塔が建てられるようになったのです。

庶民が石塔を建てるようになったのは、江戸時代になってからで、死者を供養する装置として石塔が一般化します。
形式は五輪塔、板碑型、舟型光背型などから、現在見られる箱型や角柱形へと変化しました。
墓石の形が今の形になったのは江戸時代頃と言われています。
それまでは、供養搭が作られていましたが、一般の人は簡便で費用が比較的かからない棹墓という、四角いお墓を立てるようになりました。

お墓は、お寺の境内に作られて、伝統的には1人ずつ名前が付いている個人墓でしたが、それが次第に、夫婦で入る夫婦墓となり、さらに、一族が入る墓になって行きました。
明治から大正以降、家単位の大型の石塔が建てられるようになりました。

お墓に立てる卒塔婆が墓石とともに立てられるようになったのも江戸時代からと言われています。

五輪搭

五輪搭は、地水火風空の5つからなり、密教の根本仏・大日如来を象徴しています。
下から四角い「地」、球形の「水」、三角の「火」、半球の「風」、一番上の「空」の5つの部分からなる塔です。
これらは仏教の1つである密教の教えによると、世界を構成する五大元素を表し、また密教の根本仏である大日如来を象徴するとも言われ、人の身体も表します。
平安時代の後期頃から作られ始めました。

宝篋印塔

宝篋印塔は、中にお経が納められた供養塔です。
四隅にある飾りのような屋根が特徴的です。
内部に『宝篋印陀羅尼』という経典を納めたことから、宝篋印塔と呼ばれています。
時代や地域により差がありますが、塔身の上の四隅に飾りを持つ有段の屋根を重ね、頭頂に双輪を載せた形が特徴です。
石塔が一般的で、ほかに銅製や木製などがあります。
日本では、13世紀に登場し、14世紀以降に多数造立されました。

卵塔

卵塔は、先が丸く卵のようなお坊さんのお墓です。
鎌倉時代の禅宗のお坊さんから広まりました。
その形から卵塔と呼ばれている石塔で、無縫塔の一種です。
無縫塔とは、縫い目のない塔という意味で、丸みをおびた1つの石材を塔身とするのが特徴です。
鎌倉時代頃から禅宗のお坊さんの間でお墓として広まり、次第に各宗派に普及していきました。
また、「卵塔婆」など墓・墓地の総称としても使われていました。

亀甲墓

亀甲墓は、沖縄で見られる独特の亀甲状の形をしたお墓です。
丘を掘り込んで作る様式と、丘を削りとって石で天井を作り、土砂を被せて作る2つの様式があります。
このお墓は母胎をかたどったものと言われ、人が死ぬともとのところへ戻るという思想の表れと言われています。
一般に、広く流行したのは、明治中期から大正・昭和初期にかけて言われています。

江戸時代以降のお墓

庶民のお墓が一般的になったのは、江戸幕府が檀家制度を敷いてから、江戸時代中期以降とされています。
それ以来、お墓は先祖の霊を供養するとともに、その人が生きたあかしを残すという意味で特別なものとして扱われてきました。

ただ、当時のお墓は今のお墓とは比べ物にならないくらい質素で、河原で拾ってきた丸い石をを土葬した上に載せていました。
今でも農村部に行けば、田んぼの隅などに古お墓と呼ばれる多数の石が積み重ねられている場所を見ることができるでしょう。
江戸時代後期になって、現在のお墓に近いスタイルとなり、竿石と呼ばれる石柱を建てて、戒名などを彫ったものになります。

現在、和型と呼ばれるこのような墓石は、バブル期くらいまでには墓地の大多数を占めていました。
しかし、1990年代後半になると横長の石に「愛」や「感謝」など、短い言葉を刻んだ洋型が普及し、2000年頃には、公営墓地における和型と洋型との比率が逆転しました。

ただし、現在、都心部では、和型、洋型ともに家墓の新設は激減しています。

近年のお墓の傾向

近年のお墓は先祖が眠る場所という意味合いだけではない傾向が見られます。
どんな意味を持つのかというと、お墓は先祖が眠る場所であるばかりではなく、遺族が故人を思い出す場所や、故人が先祖や家族とは関係なく、そこに眠りたいと思う場所など、多様な意味を含んでいます。

お墓の意識が、先祖代々眠る伝統的なものから、故人や遺族の考えを尊重し、その希望に合わせて造られるという考えの変化が見られます。
つまりは、お墓や葬儀は、もともとの家を軸とした考えから、個を尊重する考えにシフトしてきているのです。

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